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「中国新聞」投稿欄と「平和記念都市ヒロシマ」の光と影。

今朝の中国新聞、非常に好対照な投書が載っておりました。
片方は「球場跡地にサッカー場」、方や「跡地にサッカー場反対」の投書です。こういう賛否両論を載せるあたり球場跡地問題やサッカー場問題もかなり議論が進んできたのでしょう。

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よく球場跡地問題になると「跡地は鎮魂の場所に」「平和を祈る場所にサッカー場なんてケシカラン」という声を聞きます。

では「平和記念都市ヒロシマ」がどのような経緯で作られて行ったのでしょうか。
言うまでもなく、広島は原爆投下によって廃墟となりました。そこで広島市は翌1946年、復興計画を建てます。その復興都市計画案を見ると道路や公園計画は現在の広島市のそれとほぼ、一緒です。

しかしここには「平和都市」という理念はありませんでした。現在の平和公園は単に「中島公園」と呼ばれ、平和大通りは「100メーター道路」と呼ばれていました。余談ですが100メーター道路の起源は戦争中に空襲対策の観点から建物疎開の計画が立てられており、それをそのまま踏襲したものでした。

広島市内に巨大な道路や公園を作ろうとした理由は、「日本の年は狭い場所に木造住宅が密集しているので防災上の必要性」と、当時の濵井信三市長は語ります。

しかし、この計画は莫大な予算を必要としていました。その時の日本は広島のみならず全国の都市が戦災によって焼けており、広島に多額の予算をつぎ込んでくれる状態ではありませんでした。

そこで当時の濵井市長を始め、広島市が考えたアイデアが「恒久平和」というものでした。ヒロシマを世界の中の平和記念都市として復興させる、そのための特別法を作るよう国に要望するというアイデアでした。

このアイデアに対して日本政府は勿論、日本を占領していたGHQ(連合国軍最高司令部)も好意的な反応を見せて賛成します。

これによって1949年、国会で「広島平和記念都市建設法」が制定されました。この法律は広島市の住民投票を経て圧倒的多数の賛成によって成立しました。

この法律によって広島は国から多額の復興資金を得て、旧軍用地等も無償で譲り受けることが出来ました。これにより、広島では道路や各種のインフラ整備が進み、復興が急ピッチで進みます。

つまり「平和記念都市建設法」というのは復興資金を獲得するための手段であり、「恒久平和」というのは行政主導のキャンペーンだったのです。

一方、「平和記念公園」や「平和大通り」には既に多くの家が建っており、その移転を巡って広島市と住民との間で衝突が起きます。計画に疑問を持つ市民も少なくありませんでした。1955年の市長選挙では当時の渡辺忠雄市長は「100メーター道路にアパートを建てる」と公約して当選します(結局、実現しませんでしたが)。

前の広島市長は広島の人間はありませんから、そういった広島の歴史を知らないのは当然のことです。が、戦後60年以上経ったために広島市民でも、こういうことを知らない人が増えているのではないでしょうか。

闇雲に「平和、平和」という前にヒロシマ復興の「光と影」について客観的に知るべきでしょう。

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Author:sakochi2634
小学4年生だった1983年からずっとカープファンですが最近のカープは褒めると負けるので極力、褒めません。貶すとたまに勝ちます。最近はサンフレッチェやアンジュヴィオレも見てます。

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